Rubbish
My Thinkings


このページは回訪問されました


スーパーマンは存在しない
人は大きく分けて「勘や直感が鋭いが事務的な仕事は苦手なタイプ」と「事務的な仕事はできるが勘や直感が鈍いタイプ」に分かれると思う。勿論、両方を満たした人も存在するが、それは恐らく「勘や直感が鋭い人」が自分が事務的な仕事が苦手なことを直感的に感じて、克服しようと一生懸命努力した結果であり、その過程では相当な苦労をしているはず。適性としては彼はやはり「勘・直感が鋭い」組なのである。(一方、「事務系得意」組はそもそも自分の勘が鈍いことに気付かないことが多いし、気付いたとしてもそれは努力で克服できるものでもない)また残念ながら「勘や直感が鈍く、事務的な仕事も苦手な人」も多数存在する。
与えられるポストが要職であればあるほど両方の能力が必要となってくる。「勘や直感が鈍い人」が独りで考えた戦略は時代に合わないだろうし、「事務的な仕事が苦手な人」はせっかく良い戦略を思いついても、社内コンセンサスを得て実現にこぎつけることができない。つまり、自分がどちらのタイプなのかを自覚して、足りないところは違うタイプの人に補ってもらうという発想が必要となってくる。大企業のトップで成功している人は必ずといってよいほど「片腕となる人」に恵まれているものだ。(2004.11.21)



ディーリングチームの強さ
「ディーリングチームを強くするには一流のディーラーを採用しろ」は正しい。しかし「一流のディーラーを採用したらディーリングチームは強くなる」は必ずしも正しくない。ディーリングは一見するとディーラーの個人戦のようであるが、実はマネージメント、セールス、リスク、システム、オペレーション、クレジットまでを含めた組織同士の団体戦である。いくらディーラー個人が一流であっても、周りのセクションの力なくしてはマーケットでは勝てない。例えば、マネジメントが常にリスク回避型であれば、ディーラーは長期的視野に基づいてリスクテイクすることができず、ストラテジーの勝率低下は免れないであろう。セールス部隊が弱ければ、ディーラーはカスタマーフローが取り込めず、きっちりとカスタマーフローを取り込めている他社のディーラーに劣後することとなる。システムチームが最新鋭システムの情報に疎く、既存システムのメンテナンスに終始していれば、ディーリングの環境面で他社に劣後することとなる。リスクチームの管理手法が適切でなければ、ディーラーは必要のない負担を強いられることとなる。
F1ドライバーの佐藤琢磨が週刊誌のインタビューの中で以下のように語っている。 「シューマッハでも1番下位のチームのマシンに乗ったら優勝できないですよ。F1はすべてが噛み合わないと結果がでない。フェラーリが強いのはそこなんです。シャシーもタイヤも空力もエンジンもドライバーも、それを走らせる側のマネージメントも、戦略を立てる指揮者も、600から800人いるスタッフも、すべてがパーフェクトなぐらいに強いんです。だから、立ち向かうのが大変なんです...」
ディーリングも同じである。それぞれのセクションがマーケットでの一流のレベルを達成してはじめて強いディーリングチームが完成する。(2004.11.20)



ビジネスの目線
もし日本で何か新しいビジネスを始めるのだとしたら何が儲かるだろうか。方向感としては「海外で流行っているが日本ではまだ流行っていないものの中で日本人に受け入れられそうなもの」や「海外では手頃な価格なのになぜか日本では非常に高い値段がつけられているもの」に目をつけるのがよいと思う。全くの新しい商品やサービスを一から考え出すのと違って、このやり方に特別な知識や技術は必要ない。他の国のどの商品やサービスに狙いを合わせるかというのが決まれば、あとは開業資金を調達してマーケティング戦略の構築を進めていくだけだ。これまで日本では商社がこの役割を担ってきたのであるが、必ずしも大企業でなくては実現できないビジネスばかりではないはずだ。
アジアの国々ではデザートとして昔からマンゴープリンが非常にポピュラーであったが、これがようやくここ数年日本で売られ始め人気も上々である。ちなみに香港の一流ホテルに入っている中華レストランでマンゴープリンは大体400〜500円ぐらい。安いデザート店だと200〜300円くらいで食べることができる。マンゴーの空輸費もそれなりにかかるであろうが日本で売られているマンゴープリンの粗利は薄くはなさそうである。(2004.9.23)



随筆を書くことの意味
考えたことを文章にしようと試みることは非常に大切である。毎日、新聞やテレビをみたり、友達と話をしたりする中で、何か新しい発想が浮かんだり、それまでぼんやりと考えていたことがはっきりとみえてくるということはよくあることだが、大抵はその場で突き詰めて考えることはあまりしないので、「新しい発想で考えを進めていった場合、今度はどういった点が問題となってくるのか」といったポイントまで思索はたどり着けず、そうこうしているうちに中途半端な状態のままで次の新しい興味に走っていってしまうことが多い。そして何日かすれば「何かを新しいことを考えた」ということさえすっかり忘れてしまい、次に考えるときは元のポイントからまた思索を始めることとなる。
考えたことをいざ文章にしようとすると、頭で考えていることがある程度整理できていないとだめなことに気付かされる。考えたことを文章にする段階で、考えを一層深めなければならないことも多い。また文章に残したことをあとで読み返すことによって、その時考えたことがすぐに蘇ってくるので、次の思索はそこから効率よく進めることができる。
世の中にはいろいろなことに問題意識を持っていて、それについて語ることが好きな人はよくいるが、大抵は堂堂巡りの議論に入り込んでおり、何年間も同じポイントで立ち止まっている人も多い。僕がもし20代、30代で考えていたことを40代、50代になってまだ同じレベルで考えていたならば、それは思索ではなく、単なる愚痴と言えるだろう。なにかを考えるということは、それではどうすればよいのかというところまで考えて、実際の行動に反映させていくから意味があるのであり、そのプロセスを効率的に行うために有効な手段が、「考えたことを文章にする」という行為であると思う。(2004.9.21)



歴史のスピード
三国志演義で活躍する諸葛亮孔明の子孫達が住む村が中国浙江省・諸葛八卦村にあり、現在村に住む最年少者は孔明の第55代目の子孫にあたるらしい。三国志の時代というと日本はその時、弥生時代終期であったわけだが、実はそこからたった55代しか世代交代が行われていないことは私にとって新鮮な発見であった。我々が今存在しているということは必ず先祖が存在していたはずなのであるが、それを55代だけさかのぼるとだいたい弥生時代にまで戻ってしまうのだ。逆にいえば弥生式土器を作っていた時代からたった55の世代で我々は現在の世の中までたどり着いたことになる。
歴史のスピードは加速度的であり、恐らく我々の世代がこれから目にする歴史は想像以上の変化を伴うであろう。これから30年後に世の中がどうなっているのかを予測することは恐らく無理であり、もしかしたら日本という国がなくなっている可能性もゼロではない。
テレビのワイドショーでは、老後に備えるために倹約を実践し、極端に切り詰めた生活を送っている主婦の姿がたまに特集される。涙ぐましい倹約生活の結果、旦那の退職時には何千万円かの老後資金が貯まる計画だとかで、「見習いたいですね〜」と司会者のコメントが添えられる。しかし今後30年間の歴史のうねりの中で、もしかしたらそのお金は現在ほどの価値を持たないかも知れない。今を楽しまないで将来に備えすぎるといことは、その分今という時間を犠牲にしているということである。あまりに極端な倹約はやめて現在の家族の幸せのために使って欲しいと思う。(2004.9.19)



自分の評価軸がない人達
日本であまり注目されなかった研究者が、思いがけず海外で「評価」されたりすると、国の関係者があわてて文化勲章を授けようとしたりするのは見ていて情けない。品質やデザインがよく分からないのに、ブランドものを買い漁っている日本人旅行者を海外でたまに見かけるが、同じ日本人として恥ずかしい。初めて飲みに行ったときに「君、大学どこ?」とすぐ聞いてしまうおじさんは、その人の「ひとを見る眼」の貧しさを露呈しているようなものだ。自民党や民主党が有名タレントに出馬を要請して立候補させるのは国民を愚弄する行為だと思うが、思惑通り票が集まって当選したりするのを見ていると有権者のレベルに政治家が合わせているだけなんだと思う。何かに対してコメントするときに、「自分はどう思うか」ということは常にあいまいにしながら、「○○君もこう言っている」とか「世の中ではこう言われている」という風に逃げ道をつくりながら話をする人は信用できない。
外面にとらわれて、内面を見ることができないのは、本物の評価能力がない証拠であると思うが、意外にそういう人たちが多くてうんざりすることが多い。(2004.03.22)



ホールドアップ
いったん行われてしまうと元に戻すのが難しく、しかも交渉相手の強さを増してしまうという状態を経済学では「ホールドアップ」というらしい。
ある部品メーカーが大手自動車メーカーから系列の部品メーカーにならないかと提案を受けた場合を例にあげて考えてみる。
部品メーカーの社長は、今後その大手自動車メーカーに安定的に部品を発注してもらえるので、非常に良い話だと考え、系列の部品メーカーとなることを決断、その自動車メーカー用の部品を生産するために他の自動車メーカーからの受注はすべて断り、特別のラインや機械の据え付けに多額の初期投資を行う。しかし1年後、その自動車メーカーは明らかにコストに見合わない部品の納入価格を部品メーカーに要求してくる。部品メーカーはもうその時には既に後戻りのできない状態になっており、その要求を呑まざるを得ず、結局部品メーカーの収益性は系列メーカーになる前に比べて大きく低下してしまう ―これが典型的な「ホールドアップ」だ。
30代前半の時は仕事ができて正義感が強く、社内意識の改革に精力的だったサラリーマンが、40代に入り、子供の教育費用等がかさむと同時に転職先もなくなってきて、段々と組織に対して強く出ることができなくなっていく。そして上に対して意見が言えないオールドタイプの中間管理職に染まっていく。これも問題の背景にあるのは一種の「ホールドアップ」で、これに対抗するにはそれぞれのサラリーマンが自分なりの価値観、職業観をしっかり持って、「信念を貫いた結果苦汁を飲むのは止むを得ず。男子の本懐だ」と腹をくくる以外にはないと思う。(2004.2.27)



成果主義
どうしたら社員の目的達成への意欲を努力を駆り立てることができるか。手っ取り早く思いつくのが、結果を給与に反映させる「成果主義」である。
ではどれぐらい成果主義を強めるのがよいのだろうか。目的達成への高いインセンティブを持たせるという観点からは成功と不成功の間の経済的な格差は大きければ大きい方がよい。「目的を達成すればボーナス1000万円上乗せ」といわれれば社員の目の色も変わるであろう。しかしいくら成果主義といっても、逆に「成績が悪かった場合に給料はゼロ」というのはどうだろう。社員にも家族を養うという就労の目的があり、あまりにもリスクが高いと感じるのではないだろうか。ここで企業はジレンマに陥る。成果主義を強めれば強めるほど働くインセンティブを高めることができるが、このインセンティブを高めれば高めるほど社員のリスクも高まるのだ。
結局、社員の給料をゼロにするわけにはいかないので、成果主義を導入した日本の会社では押しなべて総人件費は上昇しがちである。もちろんその結果業績が上がり、会社の利益も増えれば当初予定通りなのであるが、大して業績が変わらないのであれば、成果主義の導入は単に人件費を上げただけということになる。
典型的なのが日本のプロ野球業界。米国流を鵜呑みにして、フリーエージェント制などを導入した結果、人気選手の年俸は急上昇。球団経営が成り立たないところが複数出てきている始末である。(2004.2.20))



研究者の報酬
青色発行ダイオードを開発した米国の大学教授(正確には日本の企業で青色発行ダイオードを開発した後に米国の大学に教授となった人)が当時勤務していた日本企業を相手取り特許権の対価として200億円を請求していた裁判で、東京地裁は請求額全額の200億円の支払いを命じる判決を下したそうだ。これは日本の研究開発のあり方に大きな悪影響を与える非常に愚かな判決であり、二審では社会的影響などにも配慮したもう少し良識ある判決を下してもらうことを裁判官に望む。
研究開発は企業にとってそもそも宝くじ的な要素を含んでおり、短期間でカネになる研究もあればそうでない研究もある。大企業が100以上のテーマの研究開発に行っていたとしても、そのうち大儲けにつながるのはごく僅かであると思われる。それでも企業が研究開発にカネを注ぎ込むのは、あるテーマの研究開発がうまく行けば他のテーマの研究開発にかかったコスト分も含めて回収できるという計算があるからであり、経営者はその辺をマクロ的に捉えて戦略を組み立てているわけである。
判決によると彼の研究には600億円相当の市場価値があるらしいが、だからといって彼がその市場価値を一個人で所有できる権利を裁判で認めてしまうと、今後企業はうまくいかなかったテーマに充てるコストを回収できなくなる。今回のような判決が今後も適用されるようになると、すぐにカネになりにくい研究に情熱を注ぎ込む研究者がいなくなってしまうのではないかと危惧するのである。
日本の裁判所は日本人の良識に基づいた判決を下すべきである。成果と報酬がマッチしていないと納得がいかず、すぐに訴訟に持ち込みたがる米国人の流儀に合わせていく必要はない。研究開発によって人間の生活をより豊かにすること自体に喜びと夢を見い出す「プロジェクト]」的価値観は日本人の美徳であり、そういう価値観を大切にしながら国の競争力を上げていくことは十分可能であると考えている。(2004.02.07)



挑戦?
横軸に「年収(金融資産でもよい)」、縦軸に「幸せの実感度」をとって、グラフを描いてみたらどんな曲線になるだろうか。年収ゼロから年収100万円ぐらいのところでは毎日の生活をやり繰りするだけでも相当きついはずだから、年収が少し増えるだけでも相当暮し向きが改善する。したがって傾きが相当きつい曲線になる。一方年収が1億円を越えたところでは1万、2万のカネはその人にとってそれほど重要ではないから、傾きが相当ゆるい曲線となる。そしてそれ以上の世界(年収5億以上)ではカネへの執着が相当低くなり、曲線の傾きはほとんど平坦なものとなるであろう。
最近野球界のヒーロー選手が大リーグに挑戦するというニュースをよくきくが、これはプロ野球選手の年俸がひと昔に比べて異様に急騰していることと無関係ではないと考えている。若くして10億、20億の金融資産を得ることが出来た選手にとっては、その次の年の年収が3億円から5億円に増えたとしても飛び上がるような感動はもう存在しない。
人間は「欲」の生き物であり、カネが満たされると次は名誉に走るとは昔からよく言われたことだ。海外で活躍している日本選手は活躍をしてもしなくてもスポーツニュースで連日採り上げられている。今まで以上に顔と名前が売れて、たとえ成功しなくても帰国した後のテレビ出演依頼などが期待できるだろう。
日本のスター選手が大リーグ行きを希望することをマスコミでは「挑戦」と表現することが多いが、「挑戦」とは、失敗した場合失うものが非常に大きい場合に使うべき言葉であって欲しい。日本の球界で一生安泰に生活できる資産をしっかり確保してから大リーグに挑戦したいと希望するのは、カネが満たされたからより高い名声を得たいといういわゆる俗な行動のうちの1つだと位置付けている。(2004.01.30)



人口増加と戦争
ある学者の研究によると自然界の動物の「個体数」は「体重のおよそマイナス0.7乗」にだいたい比例することが分かっているそうだ。もっとも理論的な根拠はまだ見つかっておらず、おそらく食物連鎖等の自然界の性質からそうなっているのではないかといわれているようだが、確かにある動物の数が突然変異的に増えたとしても、その動物の食料は自然界に限られているので、増えすぎた分は飢えて死んでいき、適正な数は維持される。生態系が安定的に機能していくために必然的に成り立っている法則なのであろう。
人間は例外中の例外で、その体重の割に異常に数が多い。そのため自然界の供給能力以上に食料やエネルギーが必要となり、生態系のバランスを壊し、様々な問題をひきおこしてきた。戦争についても、土地や食料やエネルギーを奪い合う行為であるから、増えすぎた人口と無関係ではあるまい。自然界の動物の場合は、通常餓死によって数を調整するが、人間の場合は殺し合いによって数の調整を行う場合もあると解釈すると戦争に対する見方も少しは変わる。平和運動を推し進める一方で、食糧問題、エネルギー問題に真面目に取り組まないとそれらの問題の行き着く先にあるのは恐らく奪い合いの戦争だからである。
世界の人口はこれまで右肩上がりで増えてきたが、幸い増加率自体は低下の一途にある。1960年代には2%以上あった世界の人口増加率は、現在では1.2%程度で、そのトレンドに従うと21世紀後半にはゼロに到達するらしい。先進国に限定すると、アメリカ以外の先進国は今後人口減少に向かうらしいが、アメリカだけが先進国で未だに人口が増加しているという意外な事実も「人口の増加と奪い合い」という関連から捉えると面白い。人口が増加する環境に身をおくと本能的に生存競争力があおられるのであろうか。アメリカ以外の人口減少に向かっている先進国の国々は不思議と最近好戦的ではないと思う。(2004.01.24)



人間を動かしている動機
精神分析学や心理学によると、人間を動かしている動機は「欲望」と「不安」の感情であるらしい。確かに「お前はなぜ働いているんだ」と問われれば、「より豊かな生活を送りたいという欲望」や「仕事を通じていろいろな経験をしてみたいという欲望」が動機として存在している。「働いてもらったお金のうち、何万円か貯金しておこう」などと考えるのは「将来に対する不安」が動機となっているのであろう。一見当たり前のことのように思える原理だが、結構応用範囲が広そうだ。
例えば「どうやったら自社の商品が売れるか」というある意味究極的な命題も、「どうやって消費者の欲望に訴えかけるか」「どうやって消費者の不安に訴えかけるか」という2点から考え始めれば、マーケティングの方向性はおのずと決まってくるのではなかろうか。生命保険の勧誘セールスは「もし生命保険に入っていなかったら、将来的にどういう困った事態に陥るのか」というのをシュミレートし、顧客の「不安」をあおるようにセールストークを繰り広げるのが基本となる。ブティックの店員は顧客がその洋服を着て街を歩く姿をイメージできるようにトークを盛り上げるのがよい。
昨今の日本の消費不振の背景についても「買いたいものが一通り出揃ってしまって、新たに消費者の欲望を刺激するものが出てこなくなってきている」「雇用の不安や年金問題など先々を見通せない不安の中で、消費者がお金を遣う気になれない」と分析することが可能である。ただもし前者が当たっているならば、21世紀は20世紀に比べて驚きと発見に乏しいつまらない世の中となりそうである。(2004.01.19)



もうあの感動は得られないのか
社会人になって働きだして、始めてもらったボーナスで食べに行った焼肉は本当に美味しかったと今でも覚えている。学生の頃は焼肉を食べに行っても、少し値段を気にしながら遠慮がちに食べていたわけで、カルビをお腹いっぱいになるまで食べた経験なんて勿論なかったわけである。ところがそれから約10年経過し、「カルビ」に対する感動もずいぶんなくなった。焼肉だけではない。お寿司などもそうだ。昔に比べると、「うに」「大トロ」を食べた時の感動が薄れているのである。人間には学習効果があるので、きっと1度経験したことに対する感動は2度目以降は徐々に薄らいでいくのであろうが、なんとも悲しい話である。海外旅行等も楽しいことは楽しいのだけれども心のドキドキ感は小学校の時の修学旅行に決してかなわない。ボーナスが出たときに奮発して高価なブランド品を手に入れても、小学校の時に珍しいガンプラ(ガンダムのプラモデル)が手に入ったときの感動にはかなわない。高級アイスクリームの味も小学校の時に友達と分け合って食べた30円のソーダアイスの味に全くかなわないのである。(2003.5.3)



無意味な資格
差し迫った必然性がない状態で何かを習得しようと努力しても努力の割には成果が上がらないものだ。例えば普段パソコンを使うことのないおじさんが1年間パソコン教室に通うよりも、仕事で毎日エクセル・ワードを使う生活を1ヶ月送る方が実態的にパソコンが使えるようになっている。語学についても、完全な日本語環境の中で生活している人がいくら時間とお金を語学学校に費やしたところで、その言葉を使う機会に恵まれなければ一瞬で風化してしまうが、一方外国人と毎日何らかのコミュニケーションを持つ人は学校に通わなくてもすぐに外国人とコミュニケーションがとれるようになる。「必然性のない環境の中で無理に自己啓発して習得できるようなレベルのことは大抵、必然性さえ出てくれば一瞬でキャッチアップできる」―僕の持論である。
むしろ大切なのは一通りの必要知識を習得した後で自らの特性をいかに業務の中で発揮していくかであり、例えば不動産業者であれば、宅建の実務知識を一通り習得すること自体はただスタートラインにたっただけのこと。その後いかに案件を獲得していくかが不動産業者としての力量を問われるのである。企業の人事担当者も最近はその辺りをよく理解しているのではないだろうか。履歴書の資格欄に書いてある中途半端な資格はさして重要ではなく、その人がどういうキャリアを持っているのか、そのキャリアを生かしてその会社でどういうことができるのかが重要視されるのではないかと思われる。
さて国の雇用対策の1つとして「教育訓練給付制度」というお馬鹿な制度がある(平成10年12月〜)。これは給付対象となる教育・訓練にかかった費用の最大80%(上限30万円)がハローワークから支給されるという制度で、会社員を5年以上やっている人ならだいたい給付対象者となる。英会話学校、パソコン学校だけではなく、ワイン教室等もなぜか給付対象教育となるようで、37〜38万円程度の教室に7〜8万円の自己負担で参加できるものだから、時間とお金に余裕のあるサラリーマン・OLを中心に趣味の延長で結構活用されているようだ。
誰が提唱して成立した制度なのかは知らないが、こんな制度で「雇用の安定と再就職の促進」(厚生労働省HPより)が図られるとは到底僕には思えない。ましてや日本経済が活性化するとは全く思えない。(2003.4.29)



食用動物の反乱
「肺炎は大丈夫か!?」という電話やメールを頻繁にもらうようになった。新聞やインターネットを通してしか分からないが、日本では相当肺炎の話題で盛り上がっているようだ。確かに、治療法が分からない肺炎は心配だし、実際に数十人の死者が出ているのは大変なことである。でもみのもんたの番組で肺炎特集を組んだりするのはマスコミの明らかなはしゃぎ過ぎ。
ちなみに現在香港では800人ぐらい感染者が発生しているが、香港の人口は680万人なので、割合は8000人に1人ぐらいなのである。しかも日本人の感染者は今のところ確認されていない。そして800人の内訳は感染者に接触した人や治療にあたった医療関係者、それと集団感染したマンションの住民で半分以上占めているので、実態的には2万人に1人ぐらいではないだろうか。もっとも香港が中国の圧力で感染者数を抑え目に発表しているという噂は結構あるようだが。
さて実は今回少しだけ触れたかったのは、「動物の人間への反乱」というテーマ。今回の新型肺炎もWHOの調査によると中国の広東省で野生の鳥を食べていた人がこれまでにないウィルスに感染してしまった可能性が指摘されている。ついつい、数年前の狂牛病騒ぎや、この前中国でニワトリからインフルエンザが大流行したことを思い出してしまうのだが、少し飛躍し過ぎだろうか。この世界をわがもの顔で支配し続けている人間への動物達の反乱。文明を持った人間にはまず勝てないから、人間が病気になるようなウィルスを次々と考え出して人間に反撃しているというシナリオだ。
昔萩本欽一が「牛には気をつけろ」と弟子達に警告していたらしい。理由は「本当はあんなに力がありそうで武器なしの人間が全くかないそうにないのに、人間にミルクと食肉を供給するために黙ってもくもくと生きている。ああいうタイプは絶対になにか裏がある。気をつけろ」ということらしい。(2003.4.8)



日本的野党
「言うは易し行うは難し」という言葉がある。景気の低迷を材料に与党を批判することは簡単だが、実際に政権を担当して国の運営をうまくやるのはただ批判するよりも格段に難しい。一方で、野党が野党のままで「うちが政権をとった暁には必ずうまくやりますよ」ということを国民に証明することは結構難しい(実際に与党になって政権担当能力を示すしかない)。だからせめて「もしうちの党がやったらこういう政策をやりますよ」ということを国民に明確にしていかなければならない。こんなことは当然である。
現在の野党の中では自由党が比較的政策をアピールしているように思えるが、社会党・民主党などは僕にはただ与党を批判しているようにしか見えない。大臣のスキャンダルなどが発生すると党をあげてそれを追求する。コメントを求められると「今後徹底して追求していきたいと思います」なんて神妙な顔で答えている。「お前ら与党のスキャンダルを暴くためだけに政治家やってるのか」と思ってしまう。国民は日本国を豊かな国にして欲しいのであって、政治の表舞台にいる人が失脚することをワイドショー的に楽しみたいわけではない。
特に現在の民主党党首であるK氏については僕にはただ否定するのが得意な人にしかみえない。彼が最もきらめいていた厚生大臣時代の最大の功績は干拓事業を中止に踏み切らせたことだ。彼が政治家としてどういう日本を目指しているのかは僕にはほとんど伝わってこない。少し前の話になるが、通常国会の冒頭の党首討論で、小泉首相が新規国債30兆円枠を守らなかったことなどを槍玉に挙げて、首相から「公約は守らなくてもいい」の言を引き出して大得意のK氏の姿があった。大得意になるのは、民主党なら景気の回復と財政の健全化の両立をどのように図るのかというビジョンを明確に示した時にして欲しい。
現在与党である自民党は政策面で一枚岩ではない。通常一枚岩でない状態は党にとってマイナス材料のはずなのだが、自民党の内部に現政権と政策が違うグループが存在することで、現政権に不満を持つ国民も「小泉がダメなら他の自民党幹部で」と野党に全く目を向けていないのではないか。野党が与党のあら探しだけをして自己満足している限りこの傾向は続くと思われる。(2003.03.02)



マーケティング戦略
商品やサービスの原価があまりに透けて見えてしまうと、企業が幾らぐらい利幅を抜いているかというのが消費者サイドで簡単に計算できてしまうので企業としては非常にやりにくい。消費者はなんだか割高な買い物をさせられているような気になって、せめて他の企業(業者)と徹底的に値段比較してから買う決断をするようになる。そして最終的には他の業者との価格競争に陥りやすく、利幅は大きく減少してしまう。
旅行会社などは典型的な例だろう。「北海道食い倒れツアー2泊3日」という旅行パックを選ぶ人は、往復航空券代・ホテル代・食事代のそれぞれについて価格イメージが出来上がっているので、桁外れに割高な買い物をしてしまうことはまず少ない。たとえ「気の合った仲間と北海道でおいしいものを食べてゆっくりと息抜きする」という幸せに対して本人的には30万円の価値があると思っていても、30万円払う人はまずいないのである。パソコンもしかりである。「インターネットもできて、テレビ録画もでき、ワープロや表計算にも大活躍する」という便利さには100万円の価値があるとユーザーが思っていても、CPUがいくらだとか、HDDがいくらだとか分かってしまうと100万円支払う人はいなくなってしまう。
その一方で、原価がわかりにくいものは、純粋に「その商品やサービスから得られるメリットに対して幾ら払っても良いか」という視点でしか評価されないので、比較的利幅は維持しやすい。例えば紙おむつ。あの異様に吸収性の良い繊維でつくられた紙おむつの価格イメージがないので、「布おむつを洗濯する苦労に比べれば...」という主婦のメリットだけで評価され高くても売れる。
つまりマーケティング戦略としては「消費者に原価を考える余裕すら与えず、見た瞬間に「あら便利」と思わせてしまうこと」が非常に重要なポイントなのである。 実際に業者はテレビCM等を巧みに使って、消費者に原価を考えさせる余裕を与えていないように思われる。「こすらずに〜カビを根こそぎ カビキラー♪」というスポットCMをみた時に「あら便利♪」と思ってしまうのが通常の主婦というものであり、「これって原価安そう〜」なんて最初から思うのは相当なひねくれ主婦である。
さて話は少し違うかもしれないが、金融業者が提供しているローンという商品も実は金利という便利な指標を使うことで消費者の目を欺いている。総支払額が結構違う場合でも金利(年利)という指標を使えば見た目の差はわずかになってしまうのだ。(サラ金業者では月利表示も珍しくない) そんなことぐらい分かっているよという人がほとんどだろうが、学生時代に欲しい車を目の前にして自動車ローンの金利の見定めが甘くなってしまった経験は皆さんにはないだろうか。(2003.2.27)



会社でのカラー
生きている間にはいろいろな人との出会いがある。それぞれの人とじっくりと付き合うことが出来れば、その人の特性をある程度理解することは可能であると思われるが,残念ながら社会に出て出会う人の数はあまりに膨大であるので、ひとりひとりを時間をかけて理解していくことはかなり困難で、自分のカテゴリーで勝手に区分けして評価してしまっているケースが多い.
「A君は海外生活の経験があるので英語がペラペラである。だから社内通訳が最適である。」「B君は体育会出身なので根性がある。営業が最適である」「C君は理系出身なので、研究者が最適である」―こういった先入観というのはそれはそれで結構あたっているのかもしれないが,例えば「C君は数学もできるが、営業センスはさらに抜きん出ている」ケースも実際にはよくある。にも関わらず、「数学が出来る人材が希少である」という理由だけで、早々と専門的なコースに乗せてしまい、C君が別の才能を開花させずに、会社人生を終えてしまうのは少し残念である。まぁC君自身がその仕事を楽しいと思っているならなんら問題はないのだが。
自分のことを知っている社内の人が200人いるとして、その中できちんとお付き合いができているのは20人ぐらいだろうか。ところが自分の社内での評判は200人の声で出来上がっていくので、A君といえば「英語ペラペラ」、B君といえば「体育会」、C君といえば「理系」という単純化されたイメージに拍車がかかりやすい。会社での人の評価というのはよく知らない人が良く知らない人に語り継いで出来上がっていくのである。やりたい仕事が明確ならば、意に添わぬカラーが染み付いてしなわないように気をつけたほうがよい。
僕の場合は恐らく「ディーラー」というカラーが染み付いてきているのだろう。自分で天職だと思ったことは一度もないし、あと何年やるんだろうと思うこともある。でも、結果が数字で出てくる世界は非常に分かりやすいし、大きく勝ったときは本当に幸せな気持ちになる。少なくても意に添わぬカラーではないと思っている。(2003.2.14)



変化のスピード
世の中の変化のスピードが非常に速いために、わずか「5年先」であっても、その時自分の置かれている環境がどう変化しているかというのがほとんど予測できなくなっている。試しに今から5年前を思い返してみると、その時山一・北拓はまだ破綻していなかったし、都銀が4大メガバンクに集約している姿なんてほとんど予想できなかった。NYがテロに脅かされる街になってしまうことや日本に北朝鮮から核ミサイルが飛んでくる可能性がでてくること等も当時全くの想定外である。
人は将来を予測する時に、現在自分が置かれている環境をベースにトレンドなども加味するのだろうが、現在をベースに予想できるのはせいぜい2年先ぐらいまでで、それより先のことは予想しても外れることが多いから、現在の自分の予測にあまり過信しすぎないほうがよい。歴史的にみても、変化のスピードは加速度的であるから、「これからの5年」は「今までの5年」よりも変化のスピードが速いのではないか。「今イメージしている5年先」は実際には大きく違うはずである。
そういう中、終身雇用が当たり前と思っている日本のサラリーマンには「10年後も自分は現在の会社に働いていていて、現在と同じような仕事をしている」と思っている人が非常に多い。変化のスピードが速いと頭では分かっていても、自分だけは違うと思っている。せっかく受験戦争をくぐりぬけて今の職を手にしたのだからと、自分が今のまま快適に生きていくために、狭い組織の中での自分の既得権益を守ろうと精一杯であるようにみえる。(2003.2.2)



日本的人事
司馬遼太郎さんが90年代中ごろに訪米した際の印象として、ウォール街で行われていた投機的なマネーゲームに対して,「本来資本主義とはモノをつくってカネに変えるものであって、カネからより大きなカネを生み出そうとする数理的ゲームの行く末を心配するところである」と書き記していたことを年始のテレビで知った。さすがである。思わず、現経済・金融担当大臣のT氏がITバブルの時、「IT株はうまく当てれば数百倍になって返ってくる可能性がある」、なんてテレ東であおっていたのを思い出してしまった。いわゆる知識人でなくとも、売買ゲームだけでこんなに土地の値段が上がるのは絶対におかしいといって、バブルの時代にお金があっても危ない橋を決して渡らなかった資産家は結構いるわけで、こういう洞察力のベースとなるのは、経済や金融の知識ではなく、ここ数十年の世の中の歴史の流れを冷静にみることができる眼であると思う。それなのに、留学経験があるから、有名な教授であるから、はたまた英語が堪能であるからという理由で、重要な判断が求められるポストにつくケースが国・一般企業を問わずいまだに見られるのが残念である。絶対に別問題である。(2003.1.25)



目に見えているものへの信頼性
世の中の趨勢的なトレンドとして「目に見えているものへの信頼性」がどんどん低下しているような気がする。見かけは優等生的な中学生が実はいじめをしていたり、先生や警官が児童に猥褻行為をしたりする。大人並みの色気を放つ女子小学生や、茶髪の東大生もいっぱいいる。大衆車に乗るヤクザも増えた。矯正下着はもはや当たり前で最近はプチ整形が流行しているようだ。一方で、「バーチャルなものへの信頼性」は着実に上昇しているようで、CGの世界だけのアイドルを応援したり、プログラミングされたプラスチックの犬をかわいがったりすることに全く違和感を覚えなくなってきているのではないだろうか。
金融の世界でも「経済に流通している通貨の総量」をこれまでマネーサプライという統計値をもって把握してきたが、JRのスイカカード等に代表される電子マネーの台頭に伴い、「何が通貨を構成しているのか」という定義の根底から崩れてきている。さらにインターネットの世界ではポイント制が浸透してきており、楽天では最終的にポイントでどんな商品でも買えるように商品のラインアップを350万点まで増やす計画だそうだが、「ポイント」が実際の「お金」と同等の価値を有することが世の中的に認められれば、楽天の10億ポイントと現金1億円を交換したいと思う人が出てくる可能性があるのである。そうすれば楽天の経営者は人件費をポイントで賄ったり、他企業への支払いをポイントで済ませたり出来るわけであり、さながら通貨発行権を得たにも等しいこととなる。(2003.1.6)



いいものが安ければ売れるのか
どこで外食するかとか、どこの服を買うかとかいうのは、ある程度イメージによる部分があり、消費者は価格が高いか安いか、おいしいかまずいか、品質がよいか悪いかだけの問題で意思決定しているわけではない。その店で外食している自分が「イケている」かどうか、そこの服を着ている自分が「イケている」かどうかが結構重要なのであり、そういった意味で、マクドナルドが一旦値下げしたが、再び値下げに追い込まれたことは、マクドナルド=デフレ時代の勝ち組=先見の明ある経営=イケている会社の図式を崩してしまったという面で大きな痛手でだったと思う。若者のグループで「どこで食べる?」という話題になった時に、「マック(マクド)にしよう」といった奴が「センスのある奴」とみんなに思われるかどうかか結構重要だったのである。
同じようにユニクロも、急速な多店舗展開の中、一時の輝きを全く失ったようにみえる。赤ちゃんから老人までを幅広くターゲットとしたために、買い物かごを下げたおばさんが店内をうろつくようになってしまった。せっかく確立しつつあったユニクロ=イケているのイメージを崩してしまったのである。みんな安いものは大好きである。でも安いものを買うことで、心までみじめには絶対になりたくないのである。その店が世の中的に「イケている」ことを確認すると、安い店を利用する格好の言い訳ができる。
マクドナルドやユニクロの戦略の行き詰まりをデフレの最終局面と結びつけて解説する経済学者やエコノミストが多いようだが、それは間違えていると思う。両者の成功の鍵は「ブランドイメージ」と「低価格」の両立であったにも関わらず、「ブランドイメージ」を崩してしまったことに行き詰まりは起因するのである。(2002.12.31)



国家はどのように発生したか
最近読み始めた山川出版社の世界史の教科書には次のように書かれている。
「初期の農耕は、自然の雨に頼るだけで肥料を施さない略奪農法であったため、人々は頻繁に移動する必要があり、集落も小規模であった。しかし大河を利用する灌漑農法が進むにつれ、生産は増加し人口も増加した。また大河の治水・灌漑には多数の人々の協力が必要なため、集落の規模が大きくなり、やがて都市が形成されていった。こうした過程とともに社会はしだいに複雑になった。もともと集落は同じ血縁であるという意識で結ばれた氏族を単位としていたが、生産が増え分業が進むとその内部に貧富や強弱の差が生まれた。また集落の拡大や氏族間の交流によって、氏族はより大きな単位としての部族にまとまっていった。この変化は金属器の使用によってさらにうながされた。前3500年以後、オリエントで青銅器がつくられ、道具や武器などに使用され始めた。そのため交易や征服が盛んになり、部族の統一も進んで、一部では部族神をまつる神殿を中心に、城壁をめぐらした都市国家が成立した。そして生産にたずさわらない神官や戦士が貴族階級となり、その中から王が出て一般の平民を支配した。また征服された人々は奴隷とされ、こうして階級と国家が生まれた。」
つまり文明が進歩する中で生産活動の分業は不可欠であり、それを維持するために階級(貧富の差)や国家が自然発生したということだ。
文明的な生活と貧富の差の解消がそもそも両立できなかったことをこのように歴史で再確認すると、日本が今、「相応の生活水準」を「ほぼ全国民」で達成できていることは、なかなか立派なことであるのが分かる。(2002.12.28)



心配事恒常的存在説
人間たるもの現代社会の仕組みの中で、また複雑に絡み合った人間関係の中で生きているわけだから、必ず心配事の1つや2つはあるものだ。あとで振り返ってみれば全くとるにたらない心配事であっても、他に重い心配事がない時は心の中でそれがクローズアップされてしまって気が重くなったりする。そして、それより「重い心配事」が発生した時に、今度はこの「重い心配事」が心の中でクローズアップされていく過程の中で、それまで心を悩ましていた「軽い心配事」は、まるで薄い色が濃い色で塗りつぶされていくかのように消え去っていくのである。
 20代から30代へ年を重ねている間に、いつのまにかそういうことが経験則として身に付いていき、「軽い心配事」でいちいち心を悩ます必要はないのではないかと考えるようになった。本当に心を痛めてしまう重い心配事は、例えば家族の重傷・死に至る病気であり、自分が失業したとか、お金がないとかいうことは、それはそれで、それに応じた生き方を前向きに模索していく中で、きっと楽しいことがいっぱいあるはずである。こういったことはできれば「軽い心配事」として向き合っていきたいものだ。(2002.12.27)



答えは自分でみつけよう
数週間前の話になるが、かつての銀行の同僚と香港で飲む機会があった。彼はもともと世の中のいろいろな事象に対しての問題意識が高く、銀行の同じセクションで働いていた時も週末にお互い熱いトークを繰り広げていたわけだが、新天地のコンサルティング会社に転職してもその辺の性格が全く変わっていなくて安心した。そんな彼と今回は、海外でMBAを取得してきた人材が実際の現場ではあまり役に立たないということで盛り上がった。
彼らは大学で勉強してきたケーススタディをベースに「世界ではこういう事例もあるので、こういうビジネスは今後有望だと思います」ということは自信たっぷりにいえるが、具体論に入って「日本でそれが実際にどう流行るの?」と詰められると急に弱くなるという。教えられたことを習得する能力とそれを現場で有効に活用する能力はまったく違うということである。これは僕もかねがね感じていたことで、銀行にも多くのMBA取得者がいるが、会社のお金を使って勉強してきたことを実際に現場の仕事に生かしている例を僕はいまだ一度もみたことがない。一般の行員がふるいにかけられている25〜30歳に海外の大学で勉強していた人間は、現場で揉まれていない分むしろ迫力不足であると感じている。しかし現在の日本ではそういう人間が大臣・官僚や企業のトップに多数君臨しているのが実情なのだ。
「本当に不良債権を処理すれば日本の景気はよくなるのか」、「個人向けと企業向けに銀行を分離するビジネスモデルは日本の実情にマッチするのか」、「融資業務を縮小させてシンジケーションローンを拡充する施策は本当に銀行に安定収益をもたらすのか」―この手の1つ1つのもっともらしい施策に今一度メスをいれなければならないのではないか。
「東大を優秀な成績で出て国家公務員上級にも優秀な成績で受かったが銀行に入行し、以後エリートコースまっしぐら」という人が決めたビジネススクールの教科書に載っているような経営方針よりも、現場でしっかりと実績を積んでのし上がってきた苦労人の「俺の長年の経験に裏打ちされた眼に狂いはねえ」と言い切れる経営方針の方が信頼性に足るのである。
日本はアメリカのいうことを鵜呑みにしては絶対にならない。日本はデフレ先進国の慣れの果てとして現在世界の先頭を突っ走っているのだから。アメリカのビジネススクールのケーススタディなんかには答えは載っていないのである。(2002.12.15)



日本の実力
中国の経済発展が引続き急ピッチで進んでいる。その一方、これまで中国の優等生であった香港は最近めっきり落ち目である。昔は中国から香港に働き口を求めて労働者が押し寄せ、いわゆる密入国者なども後が絶えなかったわけだが、最近では逆に香港から工業化の著しい深セン等に労働力が流れている。国内では失業者がうなぎのぼりで、手っ取り早くタクシーの運転手を始める輩が多いものだから、運転が下手で道を知らないタクシーの運転手が急増しているといった具合なのである。
もともと香港は、@近代的な経済インフラA中国唯一の近代都市という独自性B簡素で低率の税制度C外国企業が商売を行う上での規制の緩さ等を武器にこれまで発展してきた。要するに、外国企業に香港を拠点に思う存分商売をしてもらって、香港の人をたくさん雇ってもらって、香港でたくさんお金を使ってもらうために、国が中心となって最大限の努力をしてきたわけである。同じ理由から観光にも当然力を入れてきた。シンガポールも含め、東南アジアの先進国はだいたいこのパターンである。
我々が単純に「あそこの国は経済先進国だ」という場合、その内容をあまり深く考えないで話をすることが多い。確かに「アジアの経済先進国」というくくりでは日本も香港も同じカテゴリーなのだろうが、実は内容は随分違っていて、日本は香港とは逆に@島国ということでアジア大陸への物流の窓口とはなりえないA複雑で分かりにくい税制度B外国企業が躊躇したくなるような規制の多さ等の逆風をもろともせずに、勤勉さと工業技術力で発展してきた国なのである。
香港で走っている車はほとんどBMWかベンツか日本車。携帯電話はノキアかサムソンである。香港のたいていの電化製品は外国製である。香港にはブランドバッグやVCDのパクリ業者は一杯いても卓越した工業技術を持った技術者は少ない。それでも、日本と同じ「アジアの経済先進国」なのだ。なんかおかしくないか!?
日本に大仏の鋳造技術が伝わったのは奈良の大仏ができるたった十数年前らしい。そして奈良の大仏ができた時、世界の他の国であの大きさの大仏を作ることができるところはなかったという。種子島に伝わったの鉄砲も、戦国時代後期のものは既に世界最高の水準であったそうだ。古来より我々の武器は勤勉さと工業技術である。
景気低迷がなかなか止まらず、「もう日本は終わり」などという悲観論も珍しくなくなっているが、日本は規制にがんじがらめの中、外資にたよることなく世界第二位のGDPを長きにわたって生み出してきたのである。香港をちょっとだけ見習って、規制を緩和し、税制を簡素化し、競争社会へ踏み出せば、きっとまるで血管の中のコレストロールがなくなったようにスムーズに血液が流れ出すはずである。 「意外にたったそれだけのことで日本は再生するかもしれない」―規制が緩いだけで成り立っているようにみえる国香港に住んでいるとたまにそんなことを思ってしまうのである。(2002.10.29)



「少数民主制」
「不良債権問題」は「日本経済回復」の必要条件であるが十分条件ではない。つまり、「不良債権処理」をきっちり行ったからといって「日本経済」が回復するわけではなくて、「日本経済」が回復した時に「不良債権問題」も解決していくのである。
同じような関係にあるのが、「人員削減」と「企業業績回復」であると思う。「人員削減」を進めたからといって必ず「企業業績」が回復するわけではない。本業が回復していくことこそが重要なのである。しかし「企業業績」が回復すればゆとりも生まれ、いつのまにか「人員削減」は至上課題ではなくなっていることだろう。しかし「人員削減」が「企業業績回復」につながるルートがないわけではない。当たり前のことを言えば、「人員削減」によって経費を削減し、価格競争力を一段と強化し業績を回復させるというルートは存在する。一般的な「人員削減」の理由はこれであろう。
しかし、実は「人員削減」の本当の効果は別なところにあると思う。それは、不要なセクションのリストラを進めることによって、経営の意思決定プロセスが簡素化されることにより、大胆でスピード感のある意思決定ができるようになることである。
大企業の場合、つまらないことを決めるのに嫌になるくらい多くの人の承認が必要になる。そしてそれぞれの人が好き勝手なことを言って結局話が進まないことが多い。もしリストラで組織や経営陣がスリム化され、今まで20人で決めていたことが2〜3人で決めれるようになればそれは素晴らしい効果が期待できる。もちろん「正しい判断をする」ということが前提となるわけだが、現在の日本及び日本企業は、やらなければならないことは比較的見えている状態で色々なしがらみがあって前に進まないことが問題の根源なのである。求められているのは「正確さ」ではなくて、「実行力」「スピード」「決断力」である。
今回私が言っていることは「民主制」から「独裁制」への歩み寄りのようにとれるかもしれない。しかし、なんとなくなのであるが、組織の運営がうまくいっているときは「民主制」が有効なのかもしれないが、うまくいかなくなってどうしようもなくなったときには少し「独裁制」の色が必要になってくるという気がしている。いや「独裁制」というと語弊があるかもしれない。むしろ「多数民主制」から「少数民主制」への歩み寄りというべきか。
小泉政権の高い支持率も、小泉首相が守旧派の圧力に屈せず、自分の思ったようにやっている(実際にはやっていなくて、やっているようにみせかけているとの批判が多いが、)姿に好感を持っている層に支えられているような気がする。国民は(構造不況業種の社員も)意見がバラバラでものごとが決まらない状態にいい加減うんざりしているのである。(2002.10.19)



若者vsおやじ
インターネットの普及のおかげで調べものをするのが随分楽になった。より詳しい専門知識を得るのにも昔のようにわざわざ大きい本屋さんに行って専門書を一生懸命探さなくてもインターネットで検索して比較的簡単に手に入れることができ、あまり人に頼らずに勉強できる。
昔は違った。専門書も今ほど多様に出版されていなかったし、分からないことがあれば先輩、同期に聞くしかなかった。分からないことを尋ねる過程において丁寧な言葉遣いや他人にものを聞くコミュニケ―ション能力が必要とされた。聞きたかったこと以外のことも吸収できたし、先輩の偉大さも感じつつ仕事ができた。
しかし最近は上記の様な便利な環境があるおかげで、他人とのコミュニーケーションをする必然性が急速に薄れた。
現実的な知識レベルにおいて「努力をしないおやじ世代」と「自分のバリューを高めたい若い世代」の差が縮まり、多くの場合実際には逆転している。若い世代はコミュニケーションをとらなくなった分、他人に対する評価に偏りがみられるようになり、おやじ世代を単なる高コストの根源としかみなさなくなった。そして週末の若者の飲み会ではあいつはクビになるべきだ、こいつは給料泥棒だと愚痴っているのが非常によくある光景となった。一方おやじ達はおやじ達でいまだに年功序列の世界にどっぶり浸かってエスカレーター式に偉くなろうと目論んでいる。
若い世代はもっと視野を広く持って、勉強した知識だけでは組織は回らないしお金も稼げないことに気づかなければならない。そして本を読んだり資格を取ったりすること自体をゴールにせず、それをベースに組織を下から変革することをゴールとし、それを実際に行う実行力を能力のバロメータとすべきである。そしておやじ世代はエキスパートとしての自覚を持って若い世代に知識レベルで追いつかれないよう日々研鑚しなければならないことは勿論のこと、時代のスピードについていけていないと自覚すれば、潔く若い世代にポストを禅譲すべきである。(2002.10.14)



人のチカラ
「人のチカラは足し算ではない。それは掛け算だ。」ある商社の広告のキャッチコピーであるが、すんなり納得した。掛け算であるから、1より大きい数をかけると元の数より大きくなり、1より小さい数をかけると元の数より小さくなるわけだが、具体的には、教えてもらって習得したことを、より発展させてその組織の競争力を高めることができる人が「1より大きい人」であり、教えてもらったことを習得はできるが、その次の世代に受け継ぐまでにそれを発展させることができない人が「1ちょうどの人」、教えてもらったことを100%習得できない人、もしくは次の世代に100%受け継ぐことを怠る人が「1より小さい人」となると思う。もちろん我が銀行に「1より大きい人」は、たくさんいる。しかし、経営陣の将来ビジョンが現在のように不安定な中では、「1より大きい人」が「1より大きい人」であり続けるために、物凄いエネルギーが必要となってくるのだ。この1〜2年この層が急速に会社を辞めているのが非常に心配である。
僕は1年半前の転勤あいさつで「僕のいたセクションは、それぞれの持っているノウハウを持ち寄って1+1が2以上になる瞬間がたくさんあったので好きでした」と言った。僕はたまたま足し算で表現してしまったが、いいたかったことは「1より大きい人」がたくさんいたということだ。そして、いつまでもそういう気風が消えて欲しくないものだと思う。(2002.10.1)



新規産業を育成しろ(その4)
今日は日中国交正常化30周年の日。テレビ・新聞では今後の日中関係についてのいろいろなコメントが寄せられているようだが、経済面では中国経済脅威論が結構あるようだ。ある新聞社が行ったアンケートによれば日本の企業トップの60%が5年後には日本のお家芸である工業技術において、「日本は中国に追いつかれている」か、「場合によっては追い越されている」と答えている。中国が人件費が安いだけでなく、技術も高い国に脱皮した時、日本はもう歯が立たないのではないだろうか―これが中国経済脅威論である。
日本がアメリカに追いつけ追い越せで高度経済成長した時に、同じようにアメリカ国内に日本経済脅威論が巻き起こった。しかし結果的にはアメリカは日本に負けなかったのである。情報分野という新規分野を開拓し、1990年代後半のニューエコノミー景気を巻き起こしたからである。日本も世界における次の生き場を本気で探さなければならないところにきている。(2002.9.29)



善悪の普遍性
「正しい」とか「間違っている」とかいう常識的な基準は、もめごとがあった場合に案外役に立たないことが多い。例えばA君と喧嘩をした場合、自分としては常識的にA君が絶対に悪いと思っていたとしても、A君が自分が悪かったと絶対に認めなければ、そして周りも少しも自分に同情してくれなければ結構どうしようもないものだ。仲裁役のB君に相談したとしてもB君自体がA君を敵に回したくないと心の中で思っていれば、わざわざ動いてくれることはあるまい。
国際問題なんて結構そんなものである。常識的な善悪に関係なく、国際的な世論を自国に有利なように形成したほうが勝ちなのである。
第二次世界大戦後、どうして未だに日本だけが戦後補償を求められ続けているのか。米国が自国の利益のためにイラクを攻撃したとしても、どうして当然のように日本は最高水準の戦費支出を求められるのであろうか。
各国は当然自国が有利になるように動いてくる。国際的な場で発展途上国を救おうとする望ましい動きなんかも確かにあるのだけれども、本当に発展されて自国の産業が危うくなるのは本音では嫌なのである。中国をWTOに加盟させるのは12億人の市場が魅力的だからである。日本外交ももう少ししたたかにいきたいものである。(2002.9.28)



新規産業を育成しろ(その3)
日本も少なくとも明治時代には政府が国としてどんな産業を強化すればよいのかについて明確なビジョンを持っていたように思う。富国強兵を合言葉に、官営で製鉄所や紡績工場を建設し、そして、それなりに成功したのである。 ここ10数年の日本政府の経済政策に飽き飽きするのは、どの産業を強くするのかのビジョンがないのが丸見えであるからである。結果として経済政策は既存企業を助けるような公共事業に落ち着いていく。もっとメリハリをもたせるべきなのである。
例えばバイオ産業を日本はこれから国をあげて伸ばしていくのだと決断したとすると、遺伝子研究にピンポイントで国費を1兆円つぎ込むのである。海外の一線級の研究者をすべて引き抜いたり、アメリカの研究所ごと買収したりして、かなりの確率で遺伝子研究の世界一に登りつめることができるであろう。他国は脅威に感じるであろう。1産業に1兆円つぎ込める国など、そうざらにはない。「選択と集中」の時代の現代においては、こういうやり方が絶対に強い。(2002.9.14)



新規産業を育成しろ(その2)
日経平均が4万円から最初に1万円前半まで低下する局面では、平成不況は確かにバブル崩壊による資産デフレに起因するものであったかもしれないが、ここ数年の不況は明らかに日本企業の国際的競争力の低下に起因している思うのである。今、現在進行形で起きていることは、国際的競争力低下→収益力低下→さらなる財務状況悪化→債務返済不能→金融機関の不良債権の増加の流れなのである。
しかし、新聞やテレビをみていると、まるで不良債権が増加していることが根源で、不良債権の増加→邦銀が企業融資に対し消極的→日銀がいくら金融緩和しても企業にお金が回らない→企業業績が回復しない、という流れであると誤解してしまいそうになる。不良債権の増加は結果であって原因ではない。日本が再生するには絶対的に国際競争力のある分野が必要なのである。企業は新規事業における成功をきっかけとして、人員の効率的配置を推し進め、収益を回復できる。銀行はそういった企業に対し前向きな融資を拡大させることができるのである。(2002.9.12)



新規産業を育成しろ(その1)
ワープロが登場するまでは日本のサラリーマンは手書きで書類を作成していた。内容に変更があるとまた書き直さなければならなかった。データは分厚いファイルで管理され、データの抽出は肉眼で行って、手書きで資料を作成していた。電子メールはないので書類を送りたい時は郵送、ファックス等で行った。携帯電話を持っている人はほとんどなく緊急の際にはポケベルを鳴らして連絡をつけていた。公衆電話を見つけるまではなぜポケベルが鳴ったのかを知ることができなかった。私が入行した時は銀行もまだ結構そんな感じだった。考えてみればここ数年で作業の効率化は随分進んだものだ。
作業の効率化は雇用数を減らしても同レベルのパフォーマンスを維持できることを意味している。今まで100の作業量を10人で行っていた場合、これが7人で行えるようになるということだ。気をつけなければならないのは、150の作業量を10人で行うようにはならないということだ。作業の絶対量は増えないのだ。作業の効率化は人から仕事を奪うのである。
現代の歴史においては作業の効率化は常に推進される方向で動いてきたので、これらIT化推進による効率化もその一環なのかもしれないが、これまでは新しい事業がどんどん生まれてくる中で、既存の事業で効率化が推進されたので、社会全体としてうまく人が回転していたのだ。不要になった人間を吸収する受け皿が常に存在し続けていたということだ。しかしここ数年の日本においてはいらなくなった人間を吸収するような新規事業がほとんど育っていない。この点が日本の苦悩の核であると思うのである。(2002.9.9)



世界デフレ
世界中の物価が下がっている。世界中デフレである。世界で唯一、経済発展が目覚しい国である中国でさえ、値下げ競争が激しくてデフレなのである。
さて、一般的にデフレ経済下においては債務者が不利で、債権者が有利であるといわれている。これは債務者の実質負担が増える一方、物価が安くなるので債権者にとっては債権の実質価値が膨らむからである。そしてこれは個人だけではなく、国にもそのままあてはめることができる。世界各国を債権国・債務国という枠組みで分けた場合、世界デフレの下では、債権国有利で債務国不利なのである。
ちなみに日本は代表的な債権国に分類することができる。1400兆円の個人金融資産と豊富な外貨準備高と対外資産。国際収支も大幅な黒字を続けている。500兆円弱にものぼる多額な国債発行残高がマスコミに頻繁に問題として取り上げられるものの、実際にはほとんど国内投資家によってファイナンスされている。もし今後世界が長期的なデフレ時代に突入したとしても日本は外国に比べて相対的にはダメージが少ないのではないかと思われる。高度成長期に国の資産を積み上げたおやじの世代に感謝せねばなるまい。具体的には世界デフレの中、日本は国際収支の中の「金融収支の黒字」でかなり助けられる姿をイメージしている。(2002.9.7)



海外子会社
私は現在「出向」という形で海外の子会社に勤務している。そして海外子会社は東京の経営本部から「収益性」で詰められる時がある。この時、我々海外子会社は「親会社である銀行にいくら配当できているか」が評価尺度となってしまうのに対し、本部内のディーリングセクションは「ディーリングの純収益」が評価尺度となる。これは海外子会社にとって圧倒的に不利な条件でなのである。
例えば、ある年度、ディーリング業務で50億円収益があがったとすると、本部内のディーリングセクションは単純に「50億円儲かった」と評価されるのに対し、海外子会社ではディーリング収益50億円から、人件費(福利厚生費も含む)、オフィス賃貸料、システム開発費、光熱費、電話代に至るまで、全てのコストを差し引いた金額から生み出される配当でしか評価されないのである。
引続き厳しい情勢の中、今後ますます組織のスリム化が加速すると予想される。残念ながら私には現在自分が海外子会社に属しているから、その雇用環境をなにがなんでも守りたいという気持ちは更々ない。ただ上記のような問題点を認識した上で経営陣には正しい組織編成をしていただきたいと願うのである。
ところで今日は日本株価がついにバブル後最安値を更新した。ディスクロージャーによるとメガバンク4行の保有株式総額はだいたい18兆円程度。前期末対比15%の株価下落でも含み損は2.7兆円拡大することになる。2.7兆円―米国のマイクロソフト社を幾つか買収できる金額。いつもながら自分が会社にもたらしている収益っていったい何の役に立つの?と無力さを感じる今日この頃である。(2002.9.3)



プロ]
最近は会社から帰るとだいたいNHKを数時間みて寝る生活。香港で常時日本語の番組はこれ1局なんだからしょうがない。
さて「プロジェクト]」を見ているときに、少し前、ある外銀出身の著名人が『「プロジェクト]」は悲しいドキュメントだ。米国ならば社会にあれだけの貢献した成功者はみんな金持ちになっているはずだ。』とコメントしていたのを思い出した。
確かにこの番組に採り上げられている人達って、決して億万長者になっていない。でも、そのことに対して「悲しい」と言ってしまう彼の感覚はやっぱり「外資の人」だと感じる。この世に生まれて社会に貢献しながら人生を全うすることの方がただ億万長者になるよりもずっと大切なことなのである。
ひと昔前、米系インベストメントバンクに勤務する日本人がデリバティブのフェアバリューが分からない日本の金融機関をだまして、1トレードで数億円自社が儲かるような商品を設計し売りまくった。彼らの中には年収1億円プレイヤーも珍しくなかったと聞く。彼らは僕の評価軸ではプロジェクト]の中に出てくる人達と対極に位置している。自国の人を騙して、高給を手にして、日本の地で満足して死ねるのだろうか。
1年くらい前、元○○銀行の市場セクションの人達が共著で「僕たちは外資に負けなかった」という本を出して、金融界のプロジェクト]だともてはやされた。でも実は彼らのうちほとんどはその銀行から出て外資に転職したのだ。もし彼らが本当に「外資に負けなかった」のならば邦銀の世界にとどまって、邦銀の金融テクノロジーを「外資に負けない」くらいに発展させて欲しかった。当時は外資に転職するのがトレンディだったし、頭の古いマネージメントが多い邦銀の中ではやれることにおのずと限界があるという事情も十分に分かる。が、そのしがらみを乗り越えてこのどうしようもない組織を動かせる人こそが本当に優秀な人だと思うのである。(2002.8.30)



ライバルを研究する
日曜日の夜、NHKを見まくる。
その中で、松下電器が中国でシェアを上げるためにいかに苦戦を強いられているかという1時間の特集番組があった。技術でいかに差をつけても、すぐに追いつかれ(真似され)、松下では考えられないような低価格で中国製の電気製品が中国の店頭市場に並ぶ。松下の中国工場もライバル社の電気製品を買ってきて、ばらして、どうしたらコストを下げることができるのかを必死に研究する。極めて当たり前のことだが、ライバルが自社よりも勝っている部分があれば、ライバルのその部分を盗み、発展させるのである。
さて我グループの市場セクションはどうだろうか、果たして本部のマネージメントにそういう気構えがあるのだろうか。例えばJPモルガン・チェースのFixed Incomeグループの組織体制、人員、レベル、収益構造はどうなっているのですか、と聞かれて、すぐに正しい答えが返ってくるのだろうか。また最近欧米のインベストメントバンクの収益が頭打ちになってきている現状を踏まえて、我々の進むべき進路についてどういう見解を持っているのであろうか。(2002.8.19)



資産デフレと金融政策
以前から思っていたことなのだが、資産バブルが崩壊して逆資産効果が起こっている中で、中央銀行の金融政策をもって短期間で経済を立て直すというのはそもそも無理があるのではないだろうか。中央銀行が政策金利を操作可能な幅はせいぜい年利で数%。一方、株や不動産等の資産価値下落はピークから数十%にも及ぶのである。日本の場合で、政策金利の方は(時間加重平均すると)5%ぐらい引き下げたのに対し、不動産価格や株に代表される資産価格はバブルのピークからざっくり60-70%は下落したと思われる。したがって調整には最低65%÷5%=13年ぐらいかかるのである。今、日本はバブル崩壊後13年経過したところ。浮上はそろそろである。(2002.8.15)



改めて思うこと
ギリシャの史家、ポリビウス(B.C.205-123)は、人間に関する印象として、「人間にとって物事がどちらにも決まらない状態以上に耐え難いことはない。もし一たび、どちらかに決せられるというなら、人間はその結果、どんなに悪い事態がふりかかっても、その不運に耐え忍びうるものなのであろう」と記したそうだ。非常に納得である。
世の中にはリストラ(=物事がどちらにも決まらない状態)に怯えているサラリーマンは大勢いると思われるが、考えてみると実際にリストラに遭ったとして、どんな最悪の事態が待っているのであろうか。給料の要求額を大幅に減らしさえすれば、比較的すぐに次の働き口はみつかるではないだろうか。少ない給料で生活していくのだという覚悟ができた時点で心の平穏は完全に取り戻せているのではないだろうか。
仕事で成功した人を「人生の勝利者」と持ち上げることがあるが、そもそも人生に「勝ち」や「負け」というものは存在せず、生き方に本質があるのではないだろうか。リストラの影に怯えて、自分を曲げた生き方を何年も送った方がよっぽど年老いた時に後悔という地獄が待っているはずだと改めて思うのである。(2002.8.11)



モーターと歯車
銀行における総合職は一応全員「幹部候補」であり、「単なる組織の歯車になるな」「業界の将来に対するビジョンをしっかり持て」と先輩にいわれながら育ってきたように思う。しかし、改めて考えてみると、「モーターが多すぎる車」はうまく制御がとれなくて速く走れないのである。特に中途半端な水準の「モーター」が多い組織は「モーター」それぞれがお互いの性能を殺し合ってしまう可能性が高い。「優秀なモーターが少量、あとは耐久性のある歯車」という組織が強そうである。
漫然とサラリーマンやっている人達をみると仕事に対する情熱が全く感じられず、時としてイライラするが、強い組織のためには不可欠なのである。ただ、「歯車」としての思考回路しか持っていないくせに、組織人事における寝技は巧みで、優秀な「モ−ター」であることが要求されるポストに居座っているような人達はやはり退いていただきたいのである。(2002.8.10)



英国に学ぶ
現代日本の活力の衰退を19世紀イギリスの「ヴィクトリア時代」の末期に重ねてみる経済学者がいる。当時のイギリスも、産業革命の発祥国でありながら、それがあまりにも目覚しい成功を収めたためか、1870年以降製造業を中心とする産業のイノベーション活力が急速に衰えたのだ。
共通点として一人の君主が長く在位して、その間にそれぞれの国の歴史にないほど未曾有の繁栄がつづいた点をまずあげている。ヴィクトリア女王と昭和天皇はともに63年ないし64年とほとんど在位期間が同じで、これは近代君主の世界記録といえるほど長期にわたるものだそうだ。そして君主が変わったことによって何か画期的な出来事や変動があったわけではないのに、どういうわけかその頃から社会のモラルや価値観、人間関係など過去の成功の根幹を成した保守的な社会通念が実にあっさりと捨てられていく。19世紀という時代はモラルに非常にうるさい時代であったが、タガがはずれたような軽薄で享受的な風潮が浮上していったのだ。またエリートの目指す方向と大衆感覚がまったく別な方向に流れ始め、政治的に混乱をきたしたという共通点もある。
日本ではよく「失われた10年」というが、確かに日本で不景気が本格的に始まったのは平成に入ってからなのである。「失われた平成」といったほうが1989年株が高値をつけたことを考えるとしっくりくる。そして今でも両国は@歴史がある点A島国である点B貿易立国である点C金融センターである点D豊富な対外資産持っている点などで共通点は多い。イギリスに学ぶ視点がもう少し重要視されても良い。(2002.8.3)


<掲示板>